2012/05/23

岩手県宮古市に行って来た


岩手県宮古市に取材に行ってきた。
今回は藤原埠頭にある、がれきの仮置き場を見せてもらった。
この日は快晴。気温は14℃。放射線量は0.06μSv/h





がれきの山を目の前にすると、どうしても言葉につまった。この現場の担当者によると、震災以後、現在までの間に片づいたがれきは、いまだ全体の10%程度という。

いまでも時々、がれきの中からアルバムや文集などが見つかる。その都度、交番に届け、なるべく本人の手に渡るようにしている。がれきを全部まとめて粉砕できれば効率的だろうが、そうはいかない。だからひとつひとつ手作業で仕分けを行っているそうだ。途方もない作業量に、聞くだけで気が遠くなりそうだった。
がれきはゴミではない。ゴミではなくて、誰かの思い出だし、活用できる資源だ。だから大変だ。そしてこの仮置き場には、それが20万トンある。

この仮置き場には、鹿島建設によるがれき処理のための大掛かりな設備があった。人力で選別したがれきを粉砕し、ふるいわけ、可燃物と不燃物、「復興資材」などによりわける。「復興資材」は見たところ細かい土砂のような感じ。建築資材の一部に利用できるそうだが、このままでは塩分濃度が濃いため、活用方法はまだ検討中とのこと。

がれきの山の内部の温度を測ると、7090℃あるそうだ。津波によっていったん海の底に引きずり込まれたがれきは、プランクトンを連れて地上に戻った。がれきの山の内側で、プランクトンが活発に活動していて、熱を発している。引火の危険もあるし、衛生上の問題も山積みだ。これから夏になれば、ハエや蚊、さまざまな虫が発生する。作業員の方々は、皆破傷風のワクチンを打っているそうだ。

仮置き場の裏手は、海だった。日の光を受けて波が輝いていた。そこに高校生カップルがやってきて、堤防沿いに歩いて行った。学校帰りのデートだろうと思う。もしかしたら仮設住宅に住んでいて、人目につかないところを探すのに苦労しているのかもしれないな、と想像したりした。

がれきの受け入れについては、私自身は賛成派だ。どうしてこれを打ち捨てられると思うのか、そのほうが不思議だ。放射線量を測定し、問題がないと分かっているものであれば、拒否する理由はどこにもない。

2012/05/14

『建築のあたらしい大きさ』を読んだ



最近、記事を書くために読んだ本のなかで、とてつもなく面白かったのが建築家の石上純也さんの著書『建築のあたらしい大きさ』。


石上さんは、極細のカーボンファイバーを使って、建築と呼ぶにはあまりにも繊細な構造物(タイトル:Architecture as Air)を作ったりしてる人。
この作品は建築のオリンピックといわれるヴェネツィア・ビエンナーレで最高賞を受賞してるんだけど、あまりにもフラジールだったため、展示して数時間で壊れちゃったそうです。
極細の糸で出来てますから、光の加減によってはほとんど透明に見えて存在自体が消えかかるらしく、子どもや老人が気づかないでぶつかったりして、自然崩壊したみたい。カメラでも捉えにくいような透明感だから、私も写真をガン見しましたけど、どこにそれがあるのか分からないんですよ!


石上さんのしていることは、建築そのものというか、もっと進んで空間そのものに対する認識の変革です。空気みたいな建築。空間ってなに。壁とか天上とかって死語なでしょうか。私はこの人の発想にすごい重力を感じました。近寄ったらそれこそ空間がぐにょーんと曲がりそう。


肝心の『建築のあたらしい大きさ』がどう面白いかというと、詩集みたいなんですよ、読後感が。
たとえば石上さんは、雲を見てもそれを建築しようと思うらしんです。それは外見的に雲のような形のものを作ろうということではなくて、雲の特質を建築するといったほうが近そう。
瞬間瞬間に、季節や温度などの条件次第で形を変える、そういう特性を持つ新しい建築物ができないか、と考えるみたい。
雲などの自然現象だけじゃなく、地平線でも山でも、自然環境のすべてが建築のヒントになっているみたいです。
そういうことになってるから、その発想を説明しようとすると、あるとき突然、詩みたいになる。


「雨を建てる」という言葉に出会ったとき、私は心がびりびりしました。
文学が古びて失った文学性は、文学じゃないところでいつも生き残っています。


そういうわけで石上さんのこの本は、我が家の数ある本の置き場のなかで最も位の高い「枕元の棚」に置かれることとなりました。眠れない時に開けば、いい夢が見られそうです。








2011/11/18

暴力の被害者であることは社会的スティグマなのか(3)


表向きには暴力など存在しないことになっている明るい世間は、暴力の被害者を特殊な暗い世界のもの、非日常のものと考えようとする。
“暴力の被害者である(あった)こと”それ自体が、被害者の女性にとって社会的なスティグマとなっている、と感じる。被害者は暴力と向き合う私的な場所ですでに十分に傷つけられているが、外の世界では、暴力を知らなすぎる世間に直面することになる。その温度差はすさまじい。

わたしはこんなことを言われたことがある。
「暴力を受ける人って、次の男からも暴力振るわれるっていうよね」。

どういうことだろうか。質問なんだろうか。同情なんだろうか。考えるほど、意図が分からない発言である。
暴力の原因が、被害者であるわたしのほうにある、と言っているも同然だ。
しかも伝聞調。いったい誰が言っているのだろう。
あたかも世間ではそれが一般的な意見であるかのような話かただが、発言者自身がどう考えているのかはハッキリしない。

このとき、気持ちが萎えて会話するのをやめようかと思ったが、力を振り絞って言った。「わたし、その人としか付き合ったことがないわけじゃないですよ。前の彼氏に殴られたことはないし、家族にだって殴られたことなんてないし。いまの彼氏からだって、もちろん殴られていませんよ」。こう返答するのが精いっぱい。「それなら、よかった」とその人は頷いていた。もちろん悪意など、微塵もない。

拡大解釈ではあるが、この言葉はこんなふうに翻訳できる。
「暴力の被害者になる人は、(正体不明のフェロモンのようなもので?)暴力を相手から引き出している。暴力の被害者は(フェロモンで??)暴力の加害者を自分から選んでいる。暴力の被害者になる人には、そうなる特殊な理由(フェロモンか???)がある。このように世間一般では考えられている」。
こう書いてみれば、この「~っていうよね」説が、いかに無根拠のオカルト的なものであるかがわかってもらえると思う。「姑にいじめられる人って、再婚しても姑にいじめられるっていうよね」と、たとえばこの人は言うだろうか。口に出す前に、さすがに非論理的すぎると思い至るのではないだろうか。

この発言自体は、たいしたものでもない。わたしもまさか、この程度の言葉に傷ついたりはしない。ただ、暴力を知らない人とわたしとの間の、あまりにも遠い隔たりと、その埋めがたい溝に気が遠くなりはした。どこからどう説明したらいいのか。おそらくこのような先入観がある限り、暴力が身近な問題として、自分自身やわが娘や友達がかかわるすぐそこの社会の問題として考えられるようになる日は遠いだろう。

暴力の被害者となるのは男性にくらべ圧倒的に女性が多い。ではどんな女性が被害者になりやすいのかというと、これに関しては、国籍、人種、社会的地位や職業、学歴にかかわらず、あらゆる階層の女性が暴力の被害者になっていることが調査によって明らかにされている。被害者に特殊性はない。誰でも被害者になりうるし、いつ暴力に出くわしてしまうかわからない。